最近のイレギュラーな建造物についての感想
- 2005年 6月 8日
- カテゴリー : 大学
- 投稿者 : dominion.jp
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ちょっと昔、今のような小奇麗ではない吉田南キャンパスで…。
そのころ、吉田南キャンパスの門を入ると、門の裏すぐには中核派のでっかい看板が鎮座して、盛んに日帝・米帝・つくる会などを徹底的に弾劾して、学生の円滑な交通を妨げていた。門の前後では自転車と自転車、人と自転車の、人と人との衝突やニアミス、それにまつわる小競り合いが多発し、門周辺はいつでも渋滞ができ、それはそれは殺伐としていた。
大学当局は何の手も打たず、これを看過し、学生と語学の講義と教官の犠牲の上に、中核派が巨大看板によって世の中を弾劾し続け、講義も邪魔しにくるという恐怖の期間が長く続いていた。
そんな状況に、kyoto-u.comの議論板の片隅では有志は立ち上がり、中核看板に反旗を翻し、ついに看板を門周辺から撤去することに成功した…。しかし、その撤去後、地面に残された看板の痕跡も消えぬ間に、元気な中核派の面々は、時計台前―ちょうど今巨大キャンバスが置いてあるところ―に看板を移設する。この暴挙に対し、祭り好きかつ義憤に燃えるkyoto-u.comの有志は再び立ち上がり、看板に決定的な攻撃を加え、中核派の巨大看板を京都大学の構内から永久に撃滅することに成功したのである…。
最近構内に出来ているイレギュラーな建築物を考えるに思いをはせると、どうしてもあの中核看板が思い浮かぶ。中核派の巨大看板に対しては、微力ながらも時に畳んだり、ずらしたりなどの「攻撃」は行っていた。その一方で、今あるやぐらや石垣カフェについては、生温かい目で見守ろうと思う。それは、結局こんな単純な理由による。
○中核派看板は京都大学の関係者が中心におらず、大学と関係のない外部団体が自らの政治的主張を喧伝せんがために、京大生に迷惑をかけている。
○やぐらなり石垣カフェ、そして巨大キャンバスは、京都大学の関係者が学内自治に関する主張のために、京大生に迷惑をかけている。
学内の諸事に関する行動であるなら、他の学生にとって余程の迷惑にならない限りは、ああいう行動は生温かく見守りたいと思う。学内の意思決定過程においては、教授会などの意思が一定のプライオリティを持つべきであると思う。しかしながら、大学のもう一方の主役である学生の意向がそれにより一方的に蔑ろになるのであれば、それはやはりおかしいのである。大学の自治は、やはり出来るかぎりの関係者の合意の上で成立すべきであると思う。実際にどれだけの対象に配布したのか分からないアンケートで、学生の意思を反映していると強弁するのは、プロセスとしての正当性には値しない。パブコメにかけたから、として関係者の意思を反映しようとする一部官庁の欺瞞そのものである。
大学の自治を考えたとき、そのような横暴に対し、学生の一部が座り込みみたいな、ある程度の実力行使を行うのは、「整備計画」やら「歌舞禁止」やらという当局の意思決定過程から排除された者の意思表明手段の行動としては断固として容認できる(もっとも、「やぐら」が建物への出入りの邪魔になっているという人環の院生氏のレスに対しては、やぐら派の人々は対応すべきだが、その強度が十分であるならば、あのやぐらが実際キャンパス全体を見たときに交通の妨げになっているとまではは思えません。)。
とはいえ、もちろんやぐらに反対する学生が、その行動を非難し、例えばやぐらを壊そうと考えたりすること、これもまた生温かく見守りたいと思う。やぐらの人は別に学生代表ではない。「見苦しいからどけろ」というのもまた学生の中の意見である。壊しに出向けば、そこでやぐら派と反対派で会話が生じるわけであり、そこからお互いベターな選択肢も生まれるかもしれない。さすがにその場で殴りあいをするほど、バカでもないだろう(結局壊しに行くOFFは実現しなかったようだが。)。
なんというか、やぐらが立つような、うさんくさい京大が大好きなのである。学生運動華やかな頃の京大のエネルギーにはなんとなくノスタルジーを持ちつつも、自分で何か行動することには結局腰が引けてるわけだけど。こういう中途半端な姿勢って良くないのかしら。
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