森村進 自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門
- 2005年 9月 14日
- 投稿者 : dominion.jp
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最近注目の(?)リバタリアニズムについてちょっと読んでみようかなと思ったので購入。
トピックとして出てくるのは個人と、国家・裁判・権利・家族・経済などとの関係である。そういった関係の中で「個人の自由はいったいどこまで可能なのか?」をリバタリアンの立場から紹介し、それを通してリバタリアニズムという思想を説明するという形式。
つらつら読んいでくと「理想としては理解できるけど、実際にそのような社会を作ろうと考えたら不都合だらけになるだろうな。」と思うような感じの説明が多く出てくる。だが、この不都合だらけの理想は、本書はじめにハイエクの、
経済理論家または政治哲学者の主要な仕事は、今日政治上では不可能であることが政治上で可能になるように、世論に影響を与えることにあるべきであり、それゆえに、私の提案が現在においては実行不可能であるという反対意見は、私がこれらの提案を発展させることに少しも妨げにならない。―本書7pより孫引き
という言葉が引用され、そして本書最後の、
政治と行政の現状に受け入れられようとする現実主義的議論は、いつまでも世論に影響できず、かえってその変化を追認するだけに終わるだろう。―本書212p
という筆者の言葉により、意味づけられていると言える。なるほど、多少なりともラディカルな考え方については、まずはその背後にある思想を理解してもらうところから始めなければ、実現させることが困難なのは確かだと思える。さて、この本読んでて一番面白かったのは第7章の「自生的秩序と計画」である。具体的には、ハイエクが、「コモン・ローや慣習法は自生的秩序だからOK、制定法は設計的にできた社会制度だからダメ。」という趣旨のことを言っている一方で、「政府が貨幣を発行する制度は『自生的秩序』であり、ハイエク自らが提案している自由貨幣制度は『設計』したものじゃないか。」という自らへの批判については、「自由貨幣制度は進化を阻害してきた現存の障害を取り除くもの。政府が貨幣を発行する制度は自生的秩序ではない。」という趣旨の返答をしていることの矛盾を指摘している部分。
「こういう言い方するなら、ハイエクが自制的秩序だというコモン・ローも慣習法も自生的秩序ではない。」というのが筆者の主張。そして、筆者は「重要なのは自生的か否かという秩序の形成過程ではなく、その秩序のもたらす帰結が「自由」ならばそれは自由な秩序でよいのだ。」と導く。
この部分は、リバタリアニズム云々を離れ、「自由」を「効率」に読み替えたら、経済学の比較制度分析の分野とまんま関わって来そうな考え方でもあり、まことに興味深い箇所でした。